忍者ブログ

畳上生活 河村畳店ブログ

島根県大田市温泉津町の畳店がお届けする畳に関するいろいろ

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

畳の色はどのくらいもつか

畳の最高の時期といえばなんといっても表替え、新床にした直後。
ぱーっと明るくなる部屋とすがすがしい香り。なんともいえない満足感です。

畳の新しい色はどのくらい持つのでしょうか?
実は新しい畳の香りや色は日当たりによって違いますが3ヶ月~半年でほとんどあせてしまいます。
畳を新しくした時、直射日光の当たるところに雑誌などを置いておくと2~3日でくっきり焼け型がついてしまします。残念ですよね

・・・なんだかもったいない

と感じる方もいると思います
しかし!
ここからが畳の部屋の醍醐味なのです!
畳がまだ青いときは草が柔らかく、シミやキズがつきやすいんです。
黄色くなってくると草が固くなり、シミ汚れもつきにくくなります。
草の養分が枯れるため、カビも生えにくくなります。
また、上等の畳表でお手入れをきちんとすれば全体に均一な黄色と上品なツヤが出てきます。
それはまさに「黄金色」というにふさわしい美しさです。
この色は人の肌に近い色であるため、リラックス効果もあるといわれています。

畳の値段の違い

畳表の原料である藺草は当然農産物です。
農産物には等級があります。産地や個々の農家さんの製法によっても違いますが、
同じ農家さんの畳表にも「いい選別の藺草で作ったもの」とそうでないものがあります
上等なものもそうでないものも敷き込んだときには一見、きれいな色をしています。
よーく見ると違いがわかるのですが、ぱっと見には「きれいになったなー」と感じます。
その差は数ヶ月たったときに出てきます。

高級品はよい草を選別して使っているため全体にムラなく黄金色になります。
そうでないものは茶色の草が混ざっていて無数の筋になって現れたり、
草が弱いために表皮がはがれてきたり、
焼けても茶色に近い色になります。

繰り返しになりますが畳表は農産物です。
よいものから兼価ものまで幅広いクラスがあります。
お部屋の用途と予算に応じて選んでいただけます。


色の変わらない畳もあります

ダイケンから出ている紙原料の畳表があります。
ダイケン 健やかくん製品

紙でできているため天然の藺草よりはるかに色が長持ちします
表面を樹脂加工しているため紙とは言えそこそこの強度があります
飲食店や旅館、要介護の方の部屋、ペットのいる部屋などにお勧めです。

色留めと発色加工をした「不変色」という畳表もあります。
普通の畳より緑色が濃く、10年は緑色を保ちます。
草に加工しているため藺草が柔らかくなり、表面が擦れ易い欠点があります。

いずれにせよ、客間など出来るだけ長く色を保ちたい部屋は、
カーテンなどの日除けの使用をオススメします。

畳はお客様の求める条件によって材料を選ぶことができます。
迷った時は御相談ください。
PR

畳の歴史

ルーツに探る 畳の存在価値

縄文時代 [竪穴住居]ムシロなど
縄文~弥生時代 [高床式住居(倉庫・特別な建物)]ムシロなど
奈良時代 [御床(畳ベッド)]奈良県正倉院 現存する最古の畳
平安時代 [寝殿造り]置き畳
鎌倉~室町時代 [書院造]敷き詰める畳の出現
桃山~江戸時代 [茶室・数奇屋風書院造]
  畳の町人への普及・畳と布団の分化(綿の国産が本格化)
江戸中期~明治 [一般庶民に畳が普及]
昭和 [諸工程の機械化]農村部にまで普及
 
畳がどうやって生まれたのかをお話したいと思います。

縄文時代の家屋は竪穴式住居でした。この住居の床は土です。
ここでご飯を食べたり、話をしたり、寝たりしていました。
土の上に直接座ったり寝たりするとどうでしょうか?冷たいし、硬いですよね。
ですから、マコモなどの草を並べて敷いたり、その草を編んだ莚[ムシ ロ]、
菰[コモ]という敷物を敷いていました。
日本でお米を作るようになると、高床式の建物が現れます。
さっきの家と違うのは床が地面と離れたところにあるということです。
日本は雨が多く、空気も湿っています。実はこの建物はお米などを
入れる倉庫なのですが、床を地面から離す事でお米などから湿気を
遠ざける仕組みになっています。
湿気が無いということは暮らすのにも快適です。
そこで、村長などの権力者の住居にも高床式の建物が使われるようになります。
他の人よりも高い場所に住む事で権威を表したとも考えられます。
床は木の板でできていてこのころもまだ莚をしいて寝ていました。
この暮らしに変化が現れたのは奈良時代のころだと思われます。
莚は1枚だけより重ねたほうが、温かいし、柔らかいというので、重
ねて使われていたと思われます。
これでは持ち運びに不便です。そこで何枚も重ねたものを糸で縫い、
一枚の厚みを持った敷物にすることがが行われます。
そして見た目や肌触りの良いイグサで編んだ莚を一番上に巻き、
イ莚の回らない横側は錦を縫い付け隠しました。
これが畳の始まりだと言われています。
日本に残っている一番古い畳は1200年前のベッドの畳です。
(正倉院御床[ゴショウ]の畳)
畳はベッドの敷物、つまりは寝具として登場しました。寝具といえば
今では綿布団ですが、実はこの布団の祖先は畳だといわれています。
江戸時代か、その少し前ごろまでは今のような布団や座布団は無く、
畳や莚が使われていました。 基本的には板の間で、
座るところや寝るところにだけ畳を持ち運んで使っていました。
昔の絵を見るとよくわかります。お雛様の座っているのもこういう
置き畳というスタイルのものです。
これは日本では綿がとれなかったことによります。
江戸時代ごろになって日本で本格的に綿がつくれるようになると畳と
布団は分かれて畳は床全体を覆う敷物に、布団は寝たり座ったりする
ところに使うようになります。
ところが畳は作るのにたくさんの材料や手間がかかります。
一般庶民、とくに農村の人々は江戸時代になっても筵を敷いて寝てい
たようです。
当店ができたのが大正3年、今から90年くらい前です。農村地区である
当地域では、このころも畳のある家は少なかったそうです。私の曽祖
父はそういった時代に畳のよさをみんなに知ってもらいたいと、畳屋
をはじめてこの地区に普及させていったそうです。
近年は生活スタイルや居所家具の洋風化や、幼児期からの椅子座生活
習慣、建築コスト削減、バリアフリー対策などさまざまな理由から畳
の存在価値が問われる時代になっています。
しかしこのところ、どこでも横になれる、くつろげる、家族とより近
い距離で過ごせる、畳の室内での希少自然素材としての価値(調湿、
空気清浄、吸音)といった点が注目され、和風ブームなどもあり、畳
の部屋が見直されてきています。

日本最古?の畳

ganrinji2.jpg
1993年12月、大田市温泉津町にある願林寺で、200年以上前の畳が発見されました。
発見された畳は16枚で、畳裏には

 「安永九年子十一月 教授代調之
   奥之間八枚之内」

 
などの裏書がありました。安永9年は西暦1780年で、なんと、232年前の畳ということになります。
さらに驚くことには、この畳1993年の庫裏の畳替えまで現役で使われていたそうです。
手縫足踏で非常に細かく縫ってあり床裏には菰のかわりに青表(琉球表)が使われ、当時としても最高級の仕事であることがうかがえます。

この畳が敷かれていた願林寺は島根県の温泉津(ゆのつ)町福田というところにあります。
願林寺はもともと禅宗の寺院でしたが、戦国時代(天文年間)、石見西部の国人領主小笠原氏の三原丸山城家老窪田越前守が上方で本願寺蓮如上人から教化を受けて、息子維善が得度して本願寺派の寺院となりました。
畳に書かれている「教授」はこれより九代目の住職の名で、本堂の再建、庫裏の改修、鐘楼門の改修など多くの事業を行い寛政元年十二月二十七日に亡くなりました。
 
「江戸時代には石見(いわみ)銀山※が近いことから天領でしたが、この時代農村だったこの地域には畳職人はまだいなかったと思われます。銀山のあった大田市大森町の当時の人口が二十万人とも言われていたことから、ここに優れた畳職人がいたのかもしれません。」
(当社社長談)
 
この畳は表替え(畳表を交換すること)をした形跡がありました。
この畳表はい草を両側から差込み、幅の真ん中で交差させる「中継ぎ表」というものが使われています。
畳の中ほどにある黒い筋はそのためです。
い草の先端と根元では色や太さが異なるため、品質のそろった草の中ほどだけを使うためこのような織り方がされていました。
現在ではい草の品種改良で長い草が育てられるので、このような畳表は滅多にありません。

原型をとどめ、はっきりとした年号が書かれた畳としては日本最古級のものです。
 
※石見銀山
現在の島根県大田市大森町で日本で初めて灰吹き法を導入し最盛期(慶長~寛永年間)には年間約三十八トンもの銀を産出したといわれる銀鉱山。戦国時代に本格的に開発され、大名の資金源として激しい争奪戦が繰り広げられました。関ヶ原の戦いの十日後、徳川家康は銀山とその周辺を天領として直轄しました。

ブログ開設しました

河村畳店の畳上生活、5年ぶりのホームページ更新です

畳上生活



畳についての豆知識や施工事例、
お店のある温泉津近辺のことについても記事にしていこうと思います
しばらくは過去のコンテンツをブログ記事にしていく予定です
書いていくのは現社長の息子、4代目です
よろしくお願いします