1993年12月、大田市温泉津町にある願林寺で、200年以上前の畳が発見されました。
発見された畳は16枚で、畳裏には
「安永九年子十一月 教授代調之
奥之間八枚之内」
などの裏書がありました。安永9年は西暦1780年で、なんと、232年前の畳ということになります。
さらに驚くことには、この畳1993年の庫裏の畳替えまで現役で使われていたそうです。
手縫足踏で非常に細かく縫ってあり床裏には菰のかわりに青表(琉球表)が使われ、当時としても最高級の仕事であることがうかがえます。
この畳が敷かれていた願林寺は島根県の温泉津(ゆのつ)町福田というところにあります。
願林寺はもともと禅宗の寺院でしたが、戦国時代(天文年間)、石見西部の国人領主小笠原氏の三原丸山城家老窪田越前守が上方で本願寺蓮如上人から教化を受けて、息子維善が得度して本願寺派の寺院となりました。
畳に書かれている「教授」はこれより九代目の住職の名で、本堂の再建、庫裏の改修、鐘楼門の改修など多くの事業を行い寛政元年十二月二十七日に亡くなりました。
「江戸時代には石見(いわみ)銀山※が近いことから天領でしたが、この時代農村だったこの地域には畳職人はまだいなかったと思われます。銀山のあった大田市大森町の当時の人口が二十万人とも言われていたことから、ここに優れた畳職人がいたのかもしれません。」
(当社社長談)
この畳は表替え(畳表を交換すること)をした形跡がありました。
この畳表はい草を両側から差込み、幅の真ん中で交差させる「中継ぎ表」というものが使われています。
畳の中ほどにある黒い筋はそのためです。
い草の先端と根元では色や太さが異なるため、品質のそろった草の中ほどだけを使うためこのような織り方がされていました。
現在ではい草の品種改良で長い草が育てられるので、このような畳表は滅多にありません。
原型をとどめ、はっきりとした年号が書かれた畳としては日本最古級のものです。
※石見銀山
現在の島根県大田市大森町で日本で初めて灰吹き法を導入し最盛期(慶長~寛永年間)には年間約三十八トンもの銀を産出したといわれる銀鉱山。戦国時代に本格的に開発され、大名の資金源として激しい争奪戦が繰り広げられました。関ヶ原の戦いの十日後、徳川家康は銀山とその周辺を天領として直轄しました。
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